四季めぐるの評論日記

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映画『海辺のエトランゼ』における手を握りしめる表現

*この記事には2020年に公開された『海辺のエトランゼ』のネタバレを含みますのでご注意ください。

 

はじめに

 アニメ映画『海辺のエトランゼ』を見た。沖縄の離島を舞台に、ゲイで小説家の卵の橋本駿と母親をなくしたばかりの知花実央の二人の青年の恋を描いたBL漫画を映画化したものである。60分という短い映画の中に、何度も手を繋ぐという場面が出てくるところが特に印象に残った。この映画は手を繋ぐという行為が非常に重要な要素になっている。今回は手を繋ぐという行為に焦点を当てて論じてみようと思う。また、私は原作漫画は「海辺のエトランゼ」しか読めておらず、続編の「春風のエトランゼ」は未読である。

 

手を握りしめる表現

 映画『海辺のエトランゼ』における手を握りしめる行為は、幸せの象徴であり、関係性が変化していることの象徴でもある。片方だけ握っている時はすれ違っていて、両方が握りしめている時は幸せになっているという法則がある。

 

 冒頭で二人が出会い距離を縮めていく中で、実央が本島へ引っ越すとなった時となった時「電話するね」と言い手を握りしめる。二人の心は繋がっていた。3年後、実央は駿のことが好きになって離島へ戻ってくる。二人が出会ったベンチで未央が駿の手を握りしめるが、駿はその手を握り返さない。そして駿は言う。「男を好きになってもしょうがないよ」と。

 

 実央を遠ざけようとする駿と積極的にアタックする実央。このすれ違いが前半部分のお話だ。この二人の関係性が発展するきっかけとなったのは、二人で本島へ行った時だ。駿が徹夜して書いた原稿を空港便で送るための渡島だった。本島へ行く連絡船の中で駿が実央に「彼女でも作ったらいいのに」と言ってしまう。当然、実央は怒りを表す。手に持っていたペットボトルに力が入ってしまうほどに。

 

 本島で喧嘩別れした駿は用事が終わり、未央に電話を掛けようか迷っている。そこに、未央から電話がかかってくる。実央は駿に問う。「俺は駿がすいてくれてると思ったから駿が好きになったんだよ、俺が帰ってきて迷惑だった?」。それを聞いた駿は未央のもとに駆けつける。そして、”手を取って”ホテルへと足を踏み入れる。あれだけ、実央に対して非消極的な態度を見せていた駿が初めて大胆な行動に出る。しかし、チェックイン中には未央は駿の手を握りしめていない。そこに女性の声が聞こえ実央が振り返ってみると二人が手を繋いでいることに笑う女性がいる。それはまるで世間が男を好きになるとはこういうことなんだ、という現実を教えているようである。しかし、実央は気にしないように強く駿の”手を握り締める”。同性を好きになることのつらさなんてない。男を好きになることは普通のことなんだという想いが伝わってくる。

 

 そして、部屋に入って駿はキスをする。実央は拒絶することなく受け入れる。実央が受け入れたことで駿は実央が本当に自分のことが好きなのだと確信し、駿はさらに深くキスをする。ここまでが映画の前半部分であり、二人が手を握りしめたことによって駿と実央の関係は恋人という新たなステップへ移行する。

 

 さて、恋人となったことにより離島に戻ったあとも駿も実央のこと好きだよと言うようになったりときちんと愛情表現を示すようになる。そんな中、新たな試練が訪れる。それが駿の元婚約者である桜子の訪問である。駿は桜子との結婚が破断し、その際に家との縁が切れていた。そんな中、駿の父親の具合が悪くなってしまい、桜子が連れ戻しに来たのだ。しかし、駿はそれは拒否する。怒った桜子は出ていってしまう。家を出た桜子は夜の浅瀬に立っている。そして、幼い頃の春と桜子の回想が入る。七五三で二人が手を繋いで結婚の約束をするというシーンが挿入される。桜子のプロポーズに対し、駿は桜子ならいいよと答える。そのとき二人の幼い”手の繋いだ”シーンがアップで映される。現実に戻り桜子の手が映される。もちろん、その隣に駿はいない。そこに危険だからと海に入るのを止める人物が現れる。その人物は桜子の手を取り、引き止める。それは皮肉なことに駿ではなく、実央であった。このとき、桜子は駿は自分から完全に離れたことを悟る。だからこそ、桜子はあきらめて帰ることを決めた。

 

 しかし桜子には未練は残っていた。未練が残っていたからこそ連れ戻しに来たのだ。だから、最後にせめてキスして欲しいとねだる。未央の立場からすれば、それは許せるものではなくキスを阻止するために、身を呈して実央が桜子にキスする。桜子を乗せた船が出港すると、実央は駿に平手打ちを食らわせ、なぜキスを拒否しないのかと未央は泣いて怒る。

 

 家に戻った二人。だが、実央は布団に潜り拗ねている。駿は実央の布団に入りキスをする。そして、仲直りした二人はセックスする。二人の心は繋がる。一見このセックスは物語のクライマックスであるように思う。しかし、物語は終わっていない。まだ”手を握りしめて”いないからだ。実家に帰ることを決心した駿は、荷物をまとめて家を出ようと準備をする。準備がほぼ完了した頃、駿と未央が出会ったベンチで二人は話す。駿は実央に問う。「寂しくないか、一緒に行くか」と。しかし、すぐにその言葉を撤回する。そして、駿は実央の手を握りしめ「一緒行こう」と言う。一緒に駿の実家にいくことになり嬉しくなった実央は、駿の手を引っ張って海に入る。実央を実家に連れていくということは、生涯を共にすると決心したということである。そう、最後に手を繋ぐことによって、二人の関係は恋人からさらに一歩進んだパートナーへと変化したのだ。

 

まとめ

 ここまで見てきたように、映画『海辺のエトランゼ』において手を握ることが重要な要素になっていることがわかった。手を握るというのは、オーソドックスな愛情表現であると言えるが、この作品は単に手を握るという行為が愛情表現だけにとどまらず、そこに関係性の変化の意味をも内包させているところが映画「海辺のエトランゼ」面白いところであると言える。なお、手を握る事については、幼少期の実央と母親もで何度も手を握るシーンが描かれる。だが、ここにも触れているとさらに複雑になってしまうので、今回あえて触れなかった。これはまた別の機会に触れたいと思う。また、「海辺のエトランゼ」の続編である漫画「春風のエトランゼ」は読めていないので、読めたらまた感想や考えたことを書きたいと思う。

 

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