四季めぐるの評論日記

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映画『海辺のエトランゼ』は駿の救済ストーリーである。

*この記事は映画『海辺のエトランゼ』のネタバレを含みます。

 

 どうも最近『海辺のエトランゼ』にハマっている。一昨日始めたブログの初めての記事と今回の記事、2回連続でエトランゼのことを書くぐらいには。何故だろう。この作品は駿と実央ふたりのイチャイチャ描写に重きを置いているというより、心の揺れ動きに重点を置いている。だから、分析のしがいがあるというか、論じられる余白が多いのだ。ここがエトランゼが人気になった背景なのではないかと思っている。さて、そんなキャラクターの描写に優れたエトランゼであるが、今回は駿に焦点を当てて書いてみたい。ちなみに『春風のエトランゼ』1巻を読んだ。残り3巻は未読だ。言い訳をするなら、今月は金がないのである。給料日までおあずけだ。

 

 さて、本題に入ろう。映画の中で描かれる駿の過去は辛い思い出しかない。学生時代クラスメイトから駿はゲイなのではないかと陰口を言われていたり、結婚式でゲイをカミングアウトし親から責められるなど、ゲイとして辛い人生を歩んできた。

 

 ゲイの辛いところは好きになった相手が、ゲイでなければ恋愛関係になれないことだ。異性愛であれば、好きな人に振り向いてもらうために痩せたりオシャレをしたり本人の努力の余地がある。その余地が希望だったりする。だか、ゲイであれば努力以前の問題だ。希望はない。駿はその現実に打ちひしがれてきたはずだ。

 

 駿の人生は諦めの人生だ。自分の感情に蓋をしていて生きてきた。諦めれば誰も傷つけないし自分も傷つかない。そんな人生を歩んできたのだ。しかし、唯一実央とは良い関係になる。しかし、結局実央は離れていった。そのあとの3年間、駿は無気力に生きている。連絡がない実央に見切りをつけ、人生はこんなものかと達観している。

 

 ところが、大人になった実央は駿の元に戻ってきた。そして、駿に対して積極的に愛を伝える。駿は同性を好きになることの辛さを嫌になるほど理解している。だからこそ、実央を駿が冷たい言葉で拒絶する。しかし、実央の駿への愛はブレない。駿がすぐに諦めてきたのとは反対だ。

 

 駿はそんな実央に対して徐々に心を開きはじめる。そして、やっと恋人になる。しかし、駿はさらに一歩奥へは踏み出せない。長年の思考は強固だ。それは実央と性交する直前も実央に「気色悪いとかないの?」と確認することから伺える。石橋を叩いて渡るように慎重な駿もようやく交わり合う。

 

 そして、セックスの途中で駿は「いつか、好きになった相手と抱き合えたら。そんなこと絶対叶わないと思ってた」と涙を流す。なんて悲しくせつない言葉だろう。駿の苦悩が伝わってくる。このシーンが心に残った。なぜなら、駿は映画の中でこの時以外、泣くという描写がないからだ。このとき駿は、ただ泣いたのではない。やっと泣けたのだ。

 

皆さんは、あまりにも辛いと何も感じられなくなった経験はないだろうか。私はある。受験生の頃、私は放課後の教室でひとり面接の練習をしていた。私は大きな声を出すのが苦手だ。けれど無理して声を出していた。そのとき、廊下に人の気配がした。そして、「怖っ」という声が聞こえた。私が独り言を言っていると思ったのだろう。こんなに頑張っているのに怖いといわれる。とても傷つくはずだったのに、辛いとは思わなかった。あまりに辛いことは心が壊れないように脳がブロックするのだ。けれど、その体感は忘れることは無い。駿も同じだ。辛いことが続いて、心を震わせ泣くことを忘れてしまっていたように思う。

 

 しかし、実央がそんな常識を壊してくれた。だから、やっと泣けたのだ。駿が心の底で求め続けていたことが叶い、感情を取り戻す。ずっと自分の心を犠牲にしてきた分、手に入った時の幸せは人一倍だ。あまりの幸せに駿は救われる。それを見た私たちの心をつかまれるのだ。

 

駿の体験は私たちの人生にも重なる。私たちは辛い現実を生きている。この現状を打破したいと思って生きている。けれども、なにか行動しようと焦り、よけいに苦しくなってしまう。諦めかけた時、ふとした瞬間に変化が訪れる。チャンスは自分の望むタイミングではなく思いがけない時にくるものだ。人生とはそういうものだ。駿の願いは長い年月をかけてようやく叶ったのだ。

 

だから、あせらなくていい。「海辺のエトランゼ」はそれを私たちに教えてくれる。駿と実央はつらい状況に置かれても懸命に生きる。苦しみが未来の幸せになることを知っているから。そんな彼らを見て私たちの心は洗われる。私はそんなふたりを見るのが好きだ。魅力的な彼らのことをもっと語りたい。だから、私は「海辺のエトランゼ」のことを書くのだ。

 

四季めぐる