四季めぐるの評論日記

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『春風のエトランゼ』紀伊カンナ 1~2巻感想 ~メランコリーと駿~

 メランコリーと小説家は切っても切れない関係にある。そう説いたのは文芸評論家の三浦雅士である。メランコリーすなわち憂鬱のことだ。三浦は著書『メランコリーの水脈』で三島由紀夫筒井康隆などの作家を例にあげ、いかにその作品に鬱が表れているかを説いた。なぜメランコリーに染め上げられているか、三浦はあとがきでさまざまな原因を述べている。一番わかりやすい理由はこうだ。「書くということ自体がメランコリーと密接な関係にあるのではないか」私の解釈では、つよい憂鬱にとらわれたものは、鬱を解消しようとするために書くのではないか。鬱を作品に昇華することで正気を保っているのだ。

 

メランコリーな駿

 

 小説家である駿もまたメランコリーの気質をもっている。例えば1巻で、駿と実央はふたりで駿の実家がある北海道を目指す。その最中に、実央は「今がずっと続けばいいな」「ずっと一緒がいい」という。駿は「ずっと」という言葉に対して、悲しくなる。いつか壊れるかもしれないという恐怖からだ。未来に対する恐怖といってもいい。2巻では定職につかず、貯金もろくに無く、実家暮らしという状況に危機感を露わにする。さらに「今まで生きてきた中で今が一番幸せだな」といっているにも関わらず「うまくいきすぎてコエー」ともいう。このように未来に対する恐怖が憂うつとなって駿にまとわりついている。

 

 実央と出会う前からどこか陰うつな駿であったが、むしろ実央と出会ってからその気質は増したといってよい。逆にいえば、そのうっ気が駿は小説家をつづける原動力といっていい。

 

 このように駿の憂うつな気質について分かっていただけたと思う。さて、先ほどの三浦雅士の著書『考える身体』から映画監督ダニエルシュミットの映画ついて述べた箇所がある。そこに書いてあることにも興味深い。

 

 あまりにも情愛が深いため、愛の対象が消え去ってしまうだろうことを、失われる以前にすでに惜しんでいるのである。失われてしまうに違いない、なぜならこれほどまでに愛しているのだから。

 

この感情を三浦はメランコリーだと述べている。しかし、この感情をどこかで見たことはないだろうか。私は駿のことだと直感的におもった。彼が実央になにかしてやりたいと執着を持つのは、引用したような心理が働いているのではないか。愛が深すぎるがゆえに失われてしまうのが怖い。これが未来への恐怖の根源である。

 

与えること

 実央は駿へ無意識的にいろんなものを与える。例えば、駿が未来への不安を漏らしたとき、実央は「なんとかなってるじゃん」と励ます。実央は駿のすべてを肯定する。ゲイであること、小説家であること、実家暮らしであること。どんな生き方も肯定してくれる。そのうえでずっと一緒にいたいと言ってくれるし、そばにいてくれる。このどんな生き方も肯定するという考えは作品の根底に流れているテーマと一致する。作品内にはレズビアンカップルも登場するが、マイノリティを否定的に描かない。それはエトランゼシリーズのテーマが多様性を受け入れることだからだ。

 

 ある日、駿は未央と性的行為のときに我に返ると実央に告白する。駿は同性愛者だが、実央は駿が好きな異性愛者である。健全なやつになにさせているんだろうと思ってしまうのだ。その夜、寝室でふたりが睦言を交わしているときに未央は駿に問う。「そんなに普通がよかった?」と。さらに続ける。「ひとりきりで不安でも 誰かが呼びかけてくれたり 大丈夫って言ってくれたら 少しラクになるよね」と。「ラクって」と駿は聞き返す。「生きるのが?」と実央は返す。これは、前作で両親をなくした実央が駿に声をかけられたことで実央は救われたということをいっている。

 

 しかし、駿にも思うところがある。上記で述べたとおり、駿もまた実央に自分の生き方を認めてもらえた。実央は男が好きになることは普通だと受け入れてくれた。駿もまた生きるのがラクになったのだ。そして、真剣に思う。「こいつが喜ぶことってなんだろう」と自分を救ってくれたからお返ししたい。そこにあるのはそんな純粋な気持ちだ。その瞬間、駿は憂鬱から解放される。

 

メランコリーは終わらない

 こうして実央に救われた駿は、メランコリーから解放された。めでたし、めでたし。とはいかない。現実は甘くない。次の日には実央に何をすれば喜んでくれるのか眉をひそめて悩んでいる。このとき駿はメランコリック状態になっている。駿にとってメランコリーは切っても切り離せない関係だ。

 

 すなわち、駿のメランコリーは終わらないのだ。むしろ憂鬱こそが駿のアイデンティティといっていい。実央はそんな駿を受け入れる。そのとき憂鬱は一時的になくなるけれど、舞い戻ってくる。この一連の流れを彼らは反復する。日常とは反復だ。つまり、これが二人の日常なのである。

 

 なにかしてやりたいと思うとき、普段そっけない駿は実央への愛が溢れ出す。寝ている実央の額にやさしいキスをする。私たちはそこにじれったさやもどかしさを感じる。それが読者を引き付ける。エトランゼの魅力の一部は駿の憂鬱にある。

 

 はたして駿は「なにかしてやりたいこと」の答えは見つかるのだろうか。個人的には簡単にみつからないでほしい。それがエトランゼの魅力だからだ。その答えが出るとき、それが『春風のエトランゼ』の最終回なのではないかと思っている。こんな大口を叩いておいて3巻、4巻で解決していたらどうしよう。それはそれで面白いのだが。

 

四季めぐる