四季めぐるの評論日記

自分の好きなことを書いていきます

Rosas「Rain」の不思議な魅力

 アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケル率いるベルギーの舞踊団「Rosas」。作品のひとつである「Rain」という作品がある。「Rain」は、2020年のコロナ禍に期間限定で配信された。この記事はそのときに書いたものに加筆・修正したものだ。「Rain」は不思議な魅力にあふれている。この作品は男性3人、女性7人の計10人で踊る作品だ。その振り付けも特徴的だ。動きの動作は決まっている。バレエを基本とした飛んだり跳ねたりの数十種類の動作を元に、動きを遅くしたり早したり、もしくは途中で止めるなどバリエーションをつけて1時間踊り続ける。非常に論理的に作られた振り付けである。にもかかわらず情緒的で感情豊かな印象を感じさせる。

 

 振付を担当したケースマイケルの面白いところは、独特な創作プロセスだ。普通、創作者は作品に感情や情熱、苦悩を込めるという人が多い。しかし、ケースマイケルは、そのようなことはしない。そこに感情が入り込む隙がない。

 

 具体例をあげよう。YouTubeケースマイケルがrainの振付を解説している動画がある。(以下URLである https://www.youtube.com/watch?v=eFQBKwskJh8

この動画であるシーンを解説している。ダンサーが横一列に並び丸を描いて移動する。その時、三つ編みを編むように、人が横へ横へ移動する。あくまで、動きに三つ編みを使っているだけで、それでなにかを表現しようという意思は感じられない。

 

 では、なぜこんなにも情緒的なのか。文芸評論家であり舞踊研究者でもある三浦雅士は『批評という鬱』で、舞踊とは観客がダンサーと同調し、まるで自分も踊っているかのように思わせる。これが舞踊の特徴だと述べている。

 

 このことを考えると楽しそうにして踊っているダンサーに観客の気持ちが同調しているといえる。たしかに、刻一刻と変化するそのダンスは頭を相手の腹部に擦り付けたり遊んでいるように思う。このとき同調しているのは、彼らが楽しんでいるというのはいささか安直かもしれないが、この作品において同調は、非常に興味深い。

 

 例えばモダンダンスのように、人間の葛藤をテーマにした作品では、ストーリーがあり、表現体としてのダンサーはその中で苦しんだり、喜んだりする登場人物を演じる。この時、観客と同調するとしたら、ストーリーの流れに沿った感情が同調するのである。言い換えれば、作られた感情に同調している。ところが、「Rain」はさきほど述べたようにまったくストーリーがある訳では無い。つまり、作品を踊っている踊り手の純粋な感情を我々に見せてくれる。 この特徴は使用している音楽と深い関わりがあるのではないかと睨んでいる。

 

 この作品はスティーブ・ライヒ作曲の「18人の音楽家のための音楽」を使っている。ミニマルミュージックといわれるジャンルで同じフレーズがなんども繰り返されるのが特徴だ。この曲の面白いところは、タイトルである。18人とはこの曲を演奏する人数だ。この曲は演奏する音楽家のための曲であるということだ。通常、タイトルというのは、その作品を象徴するものであるし、作者のもっとも伝えたいことを連想させるものを付けるだろう。それほど、大事なタイトルに「音楽家のため」とつけることは感情や意味性を意図的になくしているように感じたのだ。

 

 だが、この作品にはテーマがないのかといえばそうではない。スティーブ・ライヒは純粋な音楽としての美しさを表現しているのではないだろうか。そして、純粋に音楽家たちにこの作品を演奏してもらいたかったのではないだろうか。そう考えると延々と繰り返されるというのも、演奏を楽しむための仕掛けなのではないかと思えてくる。演奏家にとって、この曲は一度も間違えられない、相当な技術と精神力を要するというのは素人目にもわかる。演奏に集中し、他のことなど考えられなくなるだろう。しかし、それは、今を楽しむということではないだろうか。なにもかも忘れて、ただ演奏に集中できる。だからこそ「18人の音楽家のための音楽」なのではないだろうか。極度に難しいことは、人を夢中にさせる。話が脱線するが、QWOPというゲームがある。キーボードのQWOPで陸上選手を走らせるゲームだ。これが異常なほど難しい。操作する人は繊細でちょっとしたミスで転倒しゲームオーバーになる。しかし、高難易度であるため、成功するまで何時間もしてしまうようなゲームである。私の父親も、このゲームを朝から夕方までしていたことがある。この曲を演奏する音楽家も同じようなものではないか。

 

 「18人の音楽家のための音楽」の作曲コンセプトと「Rain」は共鳴している。類似した特性を持っている。いや、むしろ「18人の音楽家のための音楽」のコンセプトを舞踊で表現したのがこの「Rain」という作品なのではとも思えてくる。複雑で思想性が排除された作品に残るのはダンサーの踊っている時の感情のみだ。Rainとは、それがダイレクトに伝わってくる。これが作品の不思議な魅力となっている。

お弁当はおにぎりでよいという提案

皆さんは、お弁当を作るだろうか。職場の人を見ているとほとんどの人はコンビニで買ったパンや弁当を食べている。やはり、毎日お弁当を作るのは難しいのではないか。しかし、コンビニ弁当も毎日食べていれば、食費もバカにならない。そこで、私がおすすめしたいのはお弁当におにぎりを持っていくということだ。

 

 働いていると毎日お弁当を作るのは無理だと思う。まず、朝時間がない。起きて歯を磨いて朝ごはんを食べて、そんなことをしていたらあっという間に出勤時間だ。とてもじゃないけど、弁当を作る暇なんてない。

 

 ならば買えばいいという声もあるのだが、コンビニで買えば500円はかかる。毎日買うとしたら結構な出費だ。そこで私も色々工夫してみたこともある。毎日チャーハンを作るのだ。これは結構続いた。5分もあれば終わる。しかし、それすらも面倒になってきた。朝から火を使うハードルは思った以上に大きかった。

 

 そんな時、ある本が思い浮かんだ。料理研究家土井善晴の著書『一汁一菜でよいという提案』である。内容を一言でいうなら毎日の献立はご飯と具だくさんの味噌汁でよい。余裕があるときにおかずを作ればいいと説いた本だ。これなら料理の時間が5分から10分ほどになる。料理の献立に悩まされる人たちにとって革命的な考え方だ。私はこの本から料理は無理して頑張らなくてもいいことを学んだ。

 

 『一汁一菜でよいという提案』の優れているところは、ご飯と味噌汁とメニューを固定化した上で、味噌汁の具を変えたり余裕がある時はおかずを追加するなどの拡張性があることだ。この考え方を私なりにお弁当にアレンジできないかと考えた。そこで、考えたのがおにぎりでいい。これなら作る時間は1分もかからないし、火も使わない。食費もかからない。具材は色んなものを入れられる。面倒くさがりな私に合っているやり方だ。

私のお弁当作りはこうだ。ラップに塩をまいてご飯を装い、具材をのせ、握る。これで終わりだ。1分もかからないし、何よりラップである為、お弁当箱を洗う手間も省ける。

 

 何よりシンプルでうまい。労働で疲れた体に、ほんのりと塩気のきいたおにぎりを頬張る。なんて至福のひと時なのだろう。人が握ったおにぎりを食べることはヒーリング効果のようなものがあるのではないかと思う。千と千尋の神隠しでも、千尋がハクの握ったおにぎりを頬張って涙を流すというシーンがある。慣れない土地で働いていた千尋にとって、美味しくて思わず泣いてしまうシーンである。それをイメージしていただければ分かりやすいと思う。

おにぎりとは、とても面白い料理だと思う。なぜなら、握った人の手の形が米粒の集合体によって残されるからだ。その時、握った人のその日の体調や想いが身体の緊張や弛緩という形を通しておにぎりの形に記録されるのだ。こんな食べ物ほかにあるだろうか。そして、食べる人はダイレクトに記録されたものを食べる。だからこそ、握り手の想いをダイレクトに受け取れる。だから、千尋はハクの気づかいか込められたおにぎりを食べ、感極まって泣くのだ。おにぎりを握るという行為には不思議な力がある。このヒーリング効果によって私は労働の辛さが少し緩和されている。

 

おにぎり弁当が思いの外続いている。無理して朝早く起きて色々なおかずを作るよりも、シンプルにおにぎりだけ握る方が、私には合っているのではと思う。手間なく美味しいおにぎりは弁当にはピッタリであると思う。

 

四季めぐる

映画『海辺のエトランゼ』は駿の救済ストーリーである。

*この記事は映画『海辺のエトランゼ』のネタバレを含みます。

 

 どうも最近『海辺のエトランゼ』にハマっている。一昨日始めたブログの初めての記事と今回の記事、2回連続でエトランゼのことを書くぐらいには。何故だろう。この作品は駿と実央ふたりのイチャイチャ描写に重きを置いているというより、心の揺れ動きに重点を置いている。だから、分析のしがいがあるというか、論じられる余白が多いのだ。ここがエトランゼが人気になった背景なのではないかと思っている。さて、そんなキャラクターの描写に優れたエトランゼであるが、今回は駿に焦点を当てて書いてみたい。ちなみに『春風のエトランゼ』1巻を読んだ。残り3巻は未読だ。言い訳をするなら、今月は金がないのである。給料日までおあずけだ。

 

 さて、本題に入ろう。映画の中で描かれる駿の過去は辛い思い出しかない。学生時代クラスメイトから駿はゲイなのではないかと陰口を言われていたり、結婚式でゲイをカミングアウトし親から責められるなど、ゲイとして辛い人生を歩んできた。

 

 ゲイの辛いところは好きになった相手が、ゲイでなければ恋愛関係になれないことだ。異性愛であれば、好きな人に振り向いてもらうために痩せたりオシャレをしたり本人の努力の余地がある。その余地が希望だったりする。だか、ゲイであれば努力以前の問題だ。希望はない。駿はその現実に打ちひしがれてきたはずだ。

 

 駿の人生は諦めの人生だ。自分の感情に蓋をしていて生きてきた。諦めれば誰も傷つけないし自分も傷つかない。そんな人生を歩んできたのだ。しかし、唯一実央とは良い関係になる。しかし、結局実央は離れていった。そのあとの3年間、駿は無気力に生きている。連絡がない実央に見切りをつけ、人生はこんなものかと達観している。

 

 ところが、大人になった実央は駿の元に戻ってきた。そして、駿に対して積極的に愛を伝える。駿は同性を好きになることの辛さを嫌になるほど理解している。だからこそ、実央を駿が冷たい言葉で拒絶する。しかし、実央の駿への愛はブレない。駿がすぐに諦めてきたのとは反対だ。

 

 駿はそんな実央に対して徐々に心を開きはじめる。そして、やっと恋人になる。しかし、駿はさらに一歩奥へは踏み出せない。長年の思考は強固だ。それは実央と性交する直前も実央に「気色悪いとかないの?」と確認することから伺える。石橋を叩いて渡るように慎重な駿もようやく交わり合う。

 

 そして、セックスの途中で駿は「いつか、好きになった相手と抱き合えたら。そんなこと絶対叶わないと思ってた」と涙を流す。なんて悲しくせつない言葉だろう。駿の苦悩が伝わってくる。このシーンが心に残った。なぜなら、駿は映画の中でこの時以外、泣くという描写がないからだ。このとき駿は、ただ泣いたのではない。やっと泣けたのだ。

 

皆さんは、あまりにも辛いと何も感じられなくなった経験はないだろうか。私はある。受験生の頃、私は放課後の教室でひとり面接の練習をしていた。私は大きな声を出すのが苦手だ。けれど無理して声を出していた。そのとき、廊下に人の気配がした。そして、「怖っ」という声が聞こえた。私が独り言を言っていると思ったのだろう。こんなに頑張っているのに怖いといわれる。とても傷つくはずだったのに、辛いとは思わなかった。あまりに辛いことは心が壊れないように脳がブロックするのだ。けれど、その体感は忘れることは無い。駿も同じだ。辛いことが続いて、心を震わせ泣くことを忘れてしまっていたように思う。

 

 しかし、実央がそんな常識を壊してくれた。だから、やっと泣けたのだ。駿が心の底で求め続けていたことが叶い、感情を取り戻す。ずっと自分の心を犠牲にしてきた分、手に入った時の幸せは人一倍だ。あまりの幸せに駿は救われる。それを見た私たちの心をつかまれるのだ。

 

駿の体験は私たちの人生にも重なる。私たちは辛い現実を生きている。この現状を打破したいと思って生きている。けれども、なにか行動しようと焦り、よけいに苦しくなってしまう。諦めかけた時、ふとした瞬間に変化が訪れる。チャンスは自分の望むタイミングではなく思いがけない時にくるものだ。人生とはそういうものだ。駿の願いは長い年月をかけてようやく叶ったのだ。

 

だから、あせらなくていい。「海辺のエトランゼ」はそれを私たちに教えてくれる。駿と実央はつらい状況に置かれても懸命に生きる。苦しみが未来の幸せになることを知っているから。そんな彼らを見て私たちの心は洗われる。私はそんなふたりを見るのが好きだ。魅力的な彼らのことをもっと語りたい。だから、私は「海辺のエトランゼ」のことを書くのだ。

 

四季めぐる

映画『海辺のエトランゼ』における手を握りしめる表現

*この記事には2020年に公開された『海辺のエトランゼ』のネタバレを含みますのでご注意ください。

 

はじめに

 アニメ映画『海辺のエトランゼ』を見た。沖縄の離島を舞台に、ゲイで小説家の卵の橋本駿と母親をなくしたばかりの知花実央の二人の青年の恋を描いたBL漫画を映画化したものである。60分という短い映画の中に、何度も手を繋ぐという場面が出てくるところが特に印象に残った。この映画は手を繋ぐという行為が非常に重要な要素になっている。今回は手を繋ぐという行為に焦点を当てて論じてみようと思う。また、私は原作漫画は「海辺のエトランゼ」しか読めておらず、続編の「春風のエトランゼ」は未読である。

 

手を握りしめる表現

 映画『海辺のエトランゼ』における手を握りしめる行為は、幸せの象徴であり、関係性が変化していることの象徴でもある。片方だけ握っている時はすれ違っていて、両方が握りしめている時は幸せになっているという法則がある。

 

 冒頭で二人が出会い距離を縮めていく中で、実央が本島へ引っ越すとなった時となった時「電話するね」と言い手を握りしめる。二人の心は繋がっていた。3年後、実央は駿のことが好きになって離島へ戻ってくる。二人が出会ったベンチで未央が駿の手を握りしめるが、駿はその手を握り返さない。そして駿は言う。「男を好きになってもしょうがないよ」と。

 

 実央を遠ざけようとする駿と積極的にアタックする実央。このすれ違いが前半部分のお話だ。この二人の関係性が発展するきっかけとなったのは、二人で本島へ行った時だ。駿が徹夜して書いた原稿を空港便で送るための渡島だった。本島へ行く連絡船の中で駿が実央に「彼女でも作ったらいいのに」と言ってしまう。当然、実央は怒りを表す。手に持っていたペットボトルに力が入ってしまうほどに。

 

 本島で喧嘩別れした駿は用事が終わり、未央に電話を掛けようか迷っている。そこに、未央から電話がかかってくる。実央は駿に問う。「俺は駿がすいてくれてると思ったから駿が好きになったんだよ、俺が帰ってきて迷惑だった?」。それを聞いた駿は未央のもとに駆けつける。そして、”手を取って”ホテルへと足を踏み入れる。あれだけ、実央に対して非消極的な態度を見せていた駿が初めて大胆な行動に出る。しかし、チェックイン中には未央は駿の手を握りしめていない。そこに女性の声が聞こえ実央が振り返ってみると二人が手を繋いでいることに笑う女性がいる。それはまるで世間が男を好きになるとはこういうことなんだ、という現実を教えているようである。しかし、実央は気にしないように強く駿の”手を握り締める”。同性を好きになることのつらさなんてない。男を好きになることは普通のことなんだという想いが伝わってくる。

 

 そして、部屋に入って駿はキスをする。実央は拒絶することなく受け入れる。実央が受け入れたことで駿は実央が本当に自分のことが好きなのだと確信し、駿はさらに深くキスをする。ここまでが映画の前半部分であり、二人が手を握りしめたことによって駿と実央の関係は恋人という新たなステップへ移行する。

 

 さて、恋人となったことにより離島に戻ったあとも駿も実央のこと好きだよと言うようになったりときちんと愛情表現を示すようになる。そんな中、新たな試練が訪れる。それが駿の元婚約者である桜子の訪問である。駿は桜子との結婚が破断し、その際に家との縁が切れていた。そんな中、駿の父親の具合が悪くなってしまい、桜子が連れ戻しに来たのだ。しかし、駿はそれは拒否する。怒った桜子は出ていってしまう。家を出た桜子は夜の浅瀬に立っている。そして、幼い頃の春と桜子の回想が入る。七五三で二人が手を繋いで結婚の約束をするというシーンが挿入される。桜子のプロポーズに対し、駿は桜子ならいいよと答える。そのとき二人の幼い”手の繋いだ”シーンがアップで映される。現実に戻り桜子の手が映される。もちろん、その隣に駿はいない。そこに危険だからと海に入るのを止める人物が現れる。その人物は桜子の手を取り、引き止める。それは皮肉なことに駿ではなく、実央であった。このとき、桜子は駿は自分から完全に離れたことを悟る。だからこそ、桜子はあきらめて帰ることを決めた。

 

 しかし桜子には未練は残っていた。未練が残っていたからこそ連れ戻しに来たのだ。だから、最後にせめてキスして欲しいとねだる。未央の立場からすれば、それは許せるものではなくキスを阻止するために、身を呈して実央が桜子にキスする。桜子を乗せた船が出港すると、実央は駿に平手打ちを食らわせ、なぜキスを拒否しないのかと未央は泣いて怒る。

 

 家に戻った二人。だが、実央は布団に潜り拗ねている。駿は実央の布団に入りキスをする。そして、仲直りした二人はセックスする。二人の心は繋がる。一見このセックスは物語のクライマックスであるように思う。しかし、物語は終わっていない。まだ”手を握りしめて”いないからだ。実家に帰ることを決心した駿は、荷物をまとめて家を出ようと準備をする。準備がほぼ完了した頃、駿と未央が出会ったベンチで二人は話す。駿は実央に問う。「寂しくないか、一緒に行くか」と。しかし、すぐにその言葉を撤回する。そして、駿は実央の手を握りしめ「一緒行こう」と言う。一緒に駿の実家にいくことになり嬉しくなった実央は、駿の手を引っ張って海に入る。実央を実家に連れていくということは、生涯を共にすると決心したということである。そう、最後に手を繋ぐことによって、二人の関係は恋人からさらに一歩進んだパートナーへと変化したのだ。

 

まとめ

 ここまで見てきたように、映画『海辺のエトランゼ』において手を握ることが重要な要素になっていることがわかった。手を握るというのは、オーソドックスな愛情表現であると言えるが、この作品は単に手を握るという行為が愛情表現だけにとどまらず、そこに関係性の変化の意味をも内包させているところが映画「海辺のエトランゼ」面白いところであると言える。なお、手を握る事については、幼少期の実央と母親もで何度も手を握るシーンが描かれる。だが、ここにも触れているとさらに複雑になってしまうので、今回あえて触れなかった。これはまた別の機会に触れたいと思う。また、「海辺のエトランゼ」の続編である漫画「春風のエトランゼ」は読めていないので、読めたらまた感想や考えたことを書きたいと思う。

 

四季めぐる